第11話 許されざる嘘
平清盛による反転攻勢
富士川の戦いでの敗退は、平家にとって大きな痛手でした。政権の権威を失墜させ、内乱の長期化・深刻化をもたらしたからです。
治承4年(1180)11月、平清盛は念願であった福原遷都を諦め、京へ還都しました。そして自ら陣頭指揮を執り、反転攻勢をかけていきます。老境にあった清盛ですが、平家を守るため、平家の威信を取り戻すためにまい進したのです。平家の軍事基盤である伊賀・伊勢の家人たちを先頭に近江へ攻め込み、瞬く間に反乱軍を鎮圧すると、続けて以仁王の挙兵に協力した園城寺、平家の大きな反対勢力である興福寺へと攻勢をかけ、着実に退勢を挽回していきました。しかしそれには、当時の人々が恐れおののいた大きな代償を伴いました。
第12話 亀の前事件
鎌倉殿の誕生
治承4年(1180)12月12日、源頼朝は仮の住居から新たな御所の寝殿に入る「移徙の儀」を行いました。鎌倉入り直後から大倉郷に造営を開始した御所は12月に入って完成しており、この日は、坂東武者たちを従えてあらためて「移徙」、つまり、新邸に移るという儀式を挙行したのです。
そして、続いて行ったのが「着到の儀」。御所の西に造営した侍所に移動し、前月11月17日に軍事長官にあたる侍所別当に任じられた和田義盛が、頼朝の御前で「着到」、つまり、出仕した坂東武者たちの名前を記録していきました。
『吾妻鏡』の同日条には、「御家人ら同じく宿館を構ふ。自爾以降、東国皆その道あるを見、推して鎌倉の主となす」と続けています。かくして頼朝は鎌倉の主「鎌倉殿」となり、坂東武者たちは「鎌倉殿」を主君とする従者「御家人」となりました。
第13話 幼なじみの絆
源頼朝のライバル・木曽義仲
木曽義仲は、久寿元年(1154)に武蔵国で生誕したといわれています。父・源義賢は為義の次男、つまり、頼朝の父・義朝の弟に当たる人物です。無官で坂東に下った義朝とは異なり、義賢は皇太子を警護する東宮帯刀先生に任じられ、嫡男の座を与えられていました。しかし、京で失策を犯したため解官されて、仁平3年(1153)に上野国へ下向。ついで、武蔵国に進出しますが、久寿2年(1155)8月に頼朝の兄・義平に討ち取られてしまいます。このため、義仲は信濃国木曽に逃れ、この地で成長しました。
『吾妻鏡』〈治承4年(1180)9月7日条〉によると、義仲が挙兵したのは、頼朝が挙兵した翌9月のことです。当初は、父・義賢の足跡をたどるように上野国に向かいますが、頼朝との衝突を嫌い、北陸へと進出して勢力を広めていきました。
第14話 都の義仲
源頼朝が恐れる藤原秀衡
挙兵した兄・源頼朝のもとへ平泉から駆けつけた義経。当初、頼朝は、義経が奥州の覇者・藤原秀衡から与えられた武力を率いて参戦したことで、義経を介した秀衡との連携を期待しました。
しかし秀衡から頼朝に対する支援はなく、治承5年(1181)8月15日に秀衡は地方豪族としては異例となる陸奥守に就任します。これは平家の棟梁となった平宗盛の策略で、秀衡に頼朝攻めを請け負わせるためのものでした。秀衡は中立を貫きますが、頼朝が秀衡を敵視したことは言うまでもありません。
『吾妻鏡』によると、養和2年(1182)4月5日、頼朝は江ノ島弁才天に文覚を招き、秀衡を呪い殺すべく調伏を行いました。この儀式には有力御家人も集結しましたが、義経の姿はなかったようです。
第15話 足固めの儀式
平家の都落ちと皇位継承問題
寿永2年(1183)7月、木曽義仲に攻め込まれた平宗盛は、安徳天皇とともに都落ちし、天皇の正統性を示す三種の神器<神鏡「八咫鏡」、神璽「八尺瓊勾玉」、宝剣「天叢雲剣」(草薙剣)>を持ち去りました。
この未曽有の事態に、後白河法皇は治天の君として新たな天皇を選定します。候補となったのは、治承5年(1181)に亡くなった高倉上皇の第3皇子・惟明親王と第4皇子・尊成親王、そして、木曽義仲が奉じる以仁王の遺児・北陸宮でした。卜占(占い)の結果、惟明親王に決まりかけますが、後白河法皇は尊成親王を践祚させます。後鳥羽天皇、この時、わずか4歳。神器なき異例の践祚でした。
第16話 伝説の幕開け
源氏の主導権争い 頼朝VS.義仲
寿永2年(1183)10月9日に流人の身分を解かれ、従五位下に復帰した頼朝。続いて10月14日、「寿永二年十月宣旨」と呼ばれる命令が朝廷から発せられました。その内容は、
1)頼朝の支配下に置かれた東海道・東山道における荘園・国衙領では、領主・国司の支配を従来通りの形に戻す
2)領主・国司の命令に違反するものは、頼朝が取り締まる
というものです。これは粘り強い巧みな交渉が実を結んだもので、以降、頼朝は事実上の東国支配権を獲得し、官軍に位置づけられるようになりました。
しかし、東山道の信濃国に本拠を置く木曽義仲は、所領をないがしろにされたこの命令に当然、激怒します。11月19日、木曽義仲は後白河法皇の御所である法住寺殿を襲撃。捕らえた後白河法皇を利用して頼朝追討令を発すると、さらに翌寿永3年(1184)1月には征東大将軍に任官するに至りました。義仲と頼朝との軋轢は避けられないものとなり、義仲は範頼・義経率いる頼朝軍と雌雄を決することとなります。
第17話 助命と宿命
木曽義仲追討による恩賞
『吾妻鏡』〈寿永3年(1184)4月10日条〉によると、3月27日に除目があり、木曽義仲を追討した恩賞として源頼朝が正四位下に叙されました。これは、天慶3年(940)3月9日に平将門を討ち取った藤原秀郷が六位から従四位下に昇進した先例に倣ったものです。頼朝も秀郷と同様に、坂東にいたまま勲功の賞を与えられました。また、もう一つの恩賞として、平家の都落ち後に没収され、義仲に与えられていた一部の平家没官領(没収した平家方の所領)を与えられたようです。頼朝は、敵方から奪った所領を御家人たちに与えることで、より強固な主従関係を築いていきます。
ちなみに、九条兼実が記した日記『玉葉』〈寿永3年(1184)2月20日条〉によると、恩賞を打診した後白河法皇に対して頼朝は、「上のお計らいに従うだけであり、過分の恩賞は辞退する」と殊勝な返答を行っていたようです。
第18話 壇ノ浦で舞った男
苦悩する現場!範頼と義経
遠く鎌倉から弟・範頼、義経に念願である平家討伐を命じる源頼朝。しかし、現場は思うようには進みません。長門(現在の山口県)まで進撃した範頼軍は、兵船の欠如から九州への渡海が難航。長期滞在によって兵糧も欠乏し、従軍する御家人たちの多くが所領への帰国を望むほど士気が低下してしまいます。一方、平家の拠点の一つである屋島(現在の香川県高松市)を攻撃する予定であった義経軍も、出撃の目処が立たずに停滞。畿内で平家の郎党が蜂起したことにより、後白河法皇が都の治安を守ることを求めたため、義経はなかなか京を離れることができない状況にありました。一ノ谷の戦いで劇的な勝利を収めた鎌倉軍ですが、平家方は依然として瀬戸内海の制海権を掌握しており、緊迫した状況は続いていたのです。
現代のような通信技術のない当時では、情報も錯綜。『吾妻鏡』〈元暦2年(1185)1月6日条〉によると、この日、頼朝は範頼に宛てて書状を送りますが、それが範頼のもとへ届くよりも早く、事態は大きく動くことになります。
第19話 果たせぬ凱旋
始動!公文所と問注所
『吾妻鏡』によると、元暦元年(1184)10月6日に公文所吉書始が行われ、同20日に問注所が開設されました。御家人を統制する軍事機関である侍所に続き、文書の制作・発給を担当する公文所、裁判を担当する問注所という、二つの文治的な政治機関が源頼朝のもとに設置されたのです。
公文所の長官である別当に就任したのは、広い知識と高い政治的判断力を有する大江広元。中原親能、藤原行政、足立遠元らが寄人として広元を補佐しました。一方、問注所の長官である執事に就任したのは、頼朝の流人時代から献身的に支え続けた三善康信でした。三善康信は元暦元年(1184)4月14日に京から鎌倉に下向したようです。
第20話 帰ってきた義経
藤原秀衡 VS. 源頼朝
平泉に本拠を構える藤原氏は、特産品である砂金や駿馬、北方貿易などによって奥州に独自の勢力を築いていました。特に砂金は、平清盛が力を注いだ日宋貿易の輸出品として重要な意味を持ち、その功績から藤原秀衡は陸奥国の軍事長官である鎮守府将軍に就任します。そしてその後、陸奥国が後白河法皇の知行国となると、秀衡は後白河法皇と深く連携。秀衡が治承4年(1180)に平家打倒の挙兵をした源頼朝に対して義経を送り出したのは、治承3年の政変で清盛によって幽閉された後白河法皇の救援という側面もありました。
しかし、奥州に対する政治的関心が低かった平家とは異なり、支配領域が隣接する頼朝にとって秀衡は脅威となる存在でした。そこに、天才軍略家・義経が潜伏したとなれば、頼朝と秀衡の緊張関係が一層厳しいものになったことは明白です。両陣営の衝突は、避けられないものとなっていました。
まとめ
このあらすじの内容は【鎌倉殿の13人】公式サイトより引用しています。