第1話 大いなる小競り合い
物語の始まりの国・伊豆
北条家が暮らす伊豆国は太平洋に向かって張り出す半島であり、五畿七道の東海道に含まれる国です。“最北部を除く大半の地域が都と坂東をつなぐ交通路から外れる”という地理的な条件により、古来、伊豆国は中央政治から隔離しやすく、都から政治犯が流される流罪の地として利用されてきました。
北条氏の本拠・北条は、中央にそびえる天城山系の西側、現在の静岡県伊豆の国市韮山にありました。駿河湾に注ぐ狩野川沿いに位置し、伊豆国内の政治・経済の中心地である国府三島との往還には舟を用いることも可能な土地です。
一方、天城山系の東側には、伊豆国で最も有力な伊東氏の本拠・伊東がありました。現在の静岡県伊東市です。物語が始まる安元元年(1175)、都では治天の君・後白河法皇と良好な関係を築いた平家が隆盛を誇り、平家の総帥・平清盛の嫡男・重盛家の家人であった伊東祐親が、その威光を背景に勢力を伸ばしていました。そして、平治元年(1159)の平治の乱で捕らえられ罪人となった源頼朝は、平家の息のかかった祐親の監視の下で流人生活を送っていました。
第2話 佐殿の腹
流人・源頼朝の支援者
流人生活を送る源頼朝には、少なからず支援者がいました。その一人が、頼朝の乳母である比企尼です。乳母は、夫とともに貴人を幼いころから養育・後援する役目を担います。ただ授乳をするだけではありません。このため、乳母やその一族と貴人とのつながりはとても深いものとなり、強い主従関係で結ばれて大きな発言力も持ちました。
比企尼の貢献は特に大きく、頼朝が流罪となると夫とともに武蔵国比企郡(現在の埼玉県東松山市)を請所として都から下向し、夫の死後もずっと頼朝の生活支援を続けていました。比企家からの仕送りは、月に一度のペースで頼朝の下へ届いたともいわれています。頼朝も人一倍、恩義を感じていたのではないでしょうか。
第3話 挙兵は慎重に
後白河法皇と平清盛の蜜月の終焉
安元2年(1176)、後白河法皇の寵愛を一身に集め、義兄・平清盛との間を取り持っていた建春門院が35歳で死去。すると、後白河法皇と清盛との蜜月にかげりが見られ、政治の主導権を巡って両者が激しく対立するようになりました。そして、安元3年(1177)に起きた鹿ヶ谷事件で決定的な破綻を迎えます。5月、後白河法皇の近臣が京都東山鹿ヶ谷にある山荘に集まり平家打倒の謀議を巡らせていましたが、6月になって密告により計画が露見。激怒した清盛は首謀者たちを捕らえ、斬首や配流先での虐殺に処したのです。
後白河法皇もこの計画に加わっていましたが、このとき後白河院政を停止されることはありませんでした。後白河法皇に近侍していた清盛の嫡男・重盛の存在と、高倉天皇に皇子がなく代わりの院がいなかったためです。しかし治承2年(1178)、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に、のちに安徳天皇となる皇子が誕生。翌年閏7月に重盛が死去すると、後白河法皇と清盛の全面衝突は避けられないものとなり、ついに同治承3年(1179)11月、清盛はクーデターを起こして後白河法皇を幽閉し、院政を停止しました。
治承4年(1180)、外孫の安徳天皇を即位させ、娘婿の高倉上皇による傀儡院政を樹立させた清盛は権力の絶頂を迎えます。しかし、平家への反発もますます大きくなっていました。
第4話 矢のゆくえ
予想だにしなかった伊豆国の国主交代
治承4年(1180)5月に起きた以仁王の乱で源頼政が敗死すると、代わって伊豆国の知行国主となったのは平時忠でした。「平家にあらずんば人にあらず」という発言で知られる平清盛の義弟です。
それまで国主であった頼政は摂津源氏の武将で、治承2年(1178)には従三位に叙され、武門源氏初の公卿昇進を果たした人物です。清盛と良好な関係を築く一方で、武門源氏一門に対する保護も行い、孤児らを養子として迎えています。北条義時の父・時政は、現地で行政の実務を担当する在庁官人として、国主である頼政に仕える立場にありました。系統は違えど源氏が国主であったことは、流人生活を送る河内源氏の源頼朝にとっても都合がよかったでしょう。
しかし以仁王の乱の結果、事態は急変します。時忠が国主となると、現地支配は平家の家人が重用されるようになり、代官である目代には山木兼隆が起用されました。同じ源氏の謀反により平家一色に塗り替えられる伊豆国の状況に、平家から監視されていた頼朝はさぞや不安でいっぱいだったことでしょう。また頼政と結んで在庁官人を務めていた時政も、苦しい立場に追いやられていました。
第5話 兄との約束
最前の一箭
ついに挙兵した源頼朝が最初のターゲットに選んだのは山木兼隆。平家により伊豆の目代(=代官)を任された男です。兼隆の暮らす山木郷は北条から東におよそ3キロメートルの距離にあり、ご近所。加えて山木郷の北には兼隆の後見役を務める堤信遠の館もあり、勢いをつけるには格好の標的でした。
治承4(1180)年8月17日深夜、頼朝に命じられた北条時政・宗時・義時父子らが出撃。堤館に至った佐々木経高が矢を放ち、戦いの火蓋が切られます。『吾妻鏡』には、「是、源家の平氏を征する最前の一箭也」と記されています。
ちなみに『吾妻鏡』には、頼朝が占いを行わせ、決行を8月17日寅卯の剋(午前3時~7時)と決めたとも記されています。この日は、三島社の祭礼の日でもありました。
第6話 悪い知らせ
石橋山の戦い
石橋山は、現在の神奈川県小田原市の南西にあたります。父・源義朝が治めた鎌倉を目指す頼朝は、まず土肥実平の本拠である土肥郷に入り、山と海に挟まれ小勢でも大軍に対抗できる石橋山に陣を取りました。その数、およそ300騎。
対する平家方は、大庭景親が相模国の武士およそ3000騎を率いて谷一つ隔てた地に陣を引き、さらに、打倒頼朝に執念を燃やす伊東祐親がおよそ300騎を率いて、頼朝軍の裏側の山に陣取りました。兵力の差は歴然。景親は頼朝を支援する三浦党が合流する前に勝敗を決するため、治承4(1180)年8月23日の夜に攻撃を仕掛けます。激戦は翌日まで継続しました。
ちなみに『延慶本平家物語』や『源平盛衰記』などには、景親がまず悪口合戦を仕掛け、これに北条時政が応じたと記されています。
第7話 敵か、あるいは
安房国への渡海
石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、4日ほど山中に潜みました。そして平家方の隙をみて山を下り、土肥実平の案内で真鶴岬から小船に乗って安房へ渡海することに成功します。ひとまず死のふちを脱したのです。当時、海岸線に所領を持つ武士団は交易船や水軍を有しており、実平が用意したのもそうした船です。本城の衣笠城を追われた三浦義澄・義村父子らも有していた水軍の船で安房国に逃れ、頼朝と合流しました。
安房国は、頼朝が再起を図るためには格好の地でした。河内源氏の所領である丸御厨が存在し、幼なじみでもある地元の豪族・安西景益らの支援も期待できたからです。
第8話 いざ、鎌倉
武蔵国の実情
実力者である上総広常と千葉常胤を味方に加え、房総半島を制圧した源頼朝。父・源義朝が治めた鎌倉を目指して兵を進め、次なる武蔵国へと入っていきます。
武蔵国は、平治の乱までは藤原信頼が知行していましたが、乱後は平家の棟梁である平清盛の四男・知盛が国司を務めていました。このため、武蔵国の武士の多くは、平家の家人として組織されていたのです。畠山重忠をはじめとした武蔵国の武士団が三浦党の本城である衣笠城を攻め、三浦義澄の父・義明を討ち取っていますが、これは小坪合戦における重忠に対する襲撃への報復とともに、平家の重恩に報いるためでもありました。
第9話 決戦前夜
源平激突! 富士川の戦い
石橋山での敗戦からわずか1か月半で奇跡的な再起を果たし、治承4年(1180)10月7日に鎌倉入りした源頼朝。しかし、息つく暇もなく10月16日には再び駿河国へと出陣します。平清盛の孫・維盛率いる平家軍が進行してきたという情報が入ったからです。
都では、頼朝の反乱を鎮圧するため、9月5日に頼朝追討の宣旨が発せられました。清盛の命を受けた追討軍は9月22日に福原を出立し、翌23日には京の六波羅へと入ります。しかし、そのまま進軍せず、29日までこの地に長期逗留。侍大将・伊藤忠清が、陰陽道の悪日とされる「十死一生日」に六波羅を出立することを拒んだためといわれています。石橋山での頼朝の敗戦が伝えられていたため、油断もあったのかもしれません。これが頼朝に、時間を与えることになりました。
第10話 根拠なき自信
頼朝の悲願と坂東武者の思惑
富士川の西岸に陣を構えていた平維盛率いる追討軍が退却。『吾妻鏡』〈治承4年(1180)10月21日条〉によると、これを知った源頼朝は、坂東武者たちに平家軍の追撃をかけて上洛するように命じました。しかし、千葉常胤、三浦義澄、上総広常ら有力な坂東武者が反対します。
その理由は、常陸の佐竹氏をはじめ坂東には頼朝に帰服していない勢力がまだ多数あり、まずは足元を固めるべきだというものです。常胤と広常にとって佐竹氏は、常陸地方の権益をめぐって争う競合相手でした。多くの坂東武者が頼朝に協力したのは、在地支配の安定や所領拡大のためであり、このまま上洛することにはメリットがありません。後白河法皇の救援、そして、平家打倒を目指す頼朝とでは、意識の違いがありました。
坂東武者の協力なくして、頼朝の悲願は達成できません。常胤・義澄・広常らの諫言を受け入れた頼朝は、上洛を断念して鎌倉へ帰還。その途中の相模国府で大規模な論功行賞を行い、従って戦った坂東武者たちの本領を安堵しました。
まとめ
このあらすじの内容は【鎌倉殿の13人】公式サイトより引用しています。